社会福祉士・精神保健福祉士ブログ『しゃふくさん』ぱーぱすのプロフィール

どうも、こんにちは!ブログ「しゃふくさん」を運営している、ぱーぱすといいます。

私は社会福祉士・精神保健福祉士として13年ほど働いています。現在も某自治体で福祉の仕事をしています。

最も経験が長いのは、児童相談所のケースワーカー(児童福祉司)です。

このブログでは、福祉の仕事をしたい人、している人に役立つ情報を発信してきました(そのつもりです)。およそ5年になります。

記事では万人向けにライトに書いていることが多いですが、ここではもう少し踏み込んだ話をさせていただきます

 保有国家資格

  • 社会福祉士
  • 精神保健福祉士

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  職務経験
職場 職務など
児童相談所 児童福祉司(虐待介入・相談支援)
作業所 相談支援
相談支援事業所 相談支援専門員
障害支援区分認定調査員
精神科クリニック 相談支援
児童入所施設 児童指導員

ブログ経歴

社会福祉士・精神保健福祉士ブログ『しゃふくさん』ぱーぱすのプロフィール

職業人生を振り返った感想「今まで、よくもまあ続けてこられたもんだなぁ」

福祉現場で働いて13年とは言いましたが、カンタンな道のりでは全くありませんでした。

思い返してみても、ラクな年は1年もありませんでした。

対人支援の仕事にルーティンワークは少ない。

いつも新たな事象への出会い、チャレンジの連続です。私には不安の連続でもありました。

自らの経験・知識を総動員して現場にのぞむ。しかも、高め続ける努力がいる。

「自分本位」「ラクな判断」による”支援もどき”に流れそうになる自らを戒め、

「相手本位」へと修正し、誠実であろうと努め続ける仕事の日々。まるで修行です。

とはいえ、私もただの人間です。時に逃避したり、怠惰に流れることはありました。決して、聖人君子のようにはなれません。

しかしながら、振り返ってまず感じることは「今まで、よくもまぁこの仕事を続けてこられたなぁ・・・」ということ。

それぐらい毎年、毎年が、辛かった。

忍耐を要し、自分を見つめ、時に自分を否定し、やはり認め、劣等感を抱き、

「この仕事で良かったのか?」「向いていないのでは?」と悩み、

「病んでしまうのでは?」と心配になるほど辛く、仕事を続けていくことに不安を抱く。

およそ13年この仕事続けている人間ですが、未だにこのような心持ちです。

不思議に思われたかもしれません。理解しがたいかもしれません。

もしかしたら、「嘘か謙遜では?」と思われたかもしれません。しかし事実です。

このように悩みぶかき人間ですが、私は今も国家資格をいかして、福祉現場の第一線に身を置きつづけることができています。

慢心するつもりはありませんが、専門性を高く求められる児童相談所の職務にも、私のキャリア上、いちばん長く向き合ってきています。

このことを説明するには、私の生い立ちと家族としての歴史をお話する必要があると思います。いわば、私の仕組みです。

全く関係ない話に感じられるかもしれません。

しかし、私が福祉の仕事をするに至り、今も続けている理由、私の感じ方や考え方といったものの根源は、私の生い立ち等と大いに関係があります

過去は今の私を成り立たせているものです。過去は、自己覚知で向き合い、受け容れてきたものでもあります。(これも辛いタスクでした)

正直いって、自らの生い立ちを公開するのは恥ずかしいです。この感覚は私だけではないでしょう。

しかし、福祉の仕事を志す人や、今まさに悩みながら続けている人に、いくばくか伝わるものがあれば良いと思い、公開することにしました。

私の生い立ちと、家族としての歴史

幼少の頃

私が子どもの頃の家族は、共働きの両親と、祖父と祖母。そして、2人のきょうだいがいました。つまり7人家族です。

両親は教師で、家の中でも学校の先生のような人たちでした。幼いころは特に厳しかったです。

私の逃げ場は、祖父と祖母でした。祖父母は、私を孫として、存分に可愛がってくれたと思います。

祖父は家長として、家族をまとめていました。厳しい一面もありそうでしたが、私の名前を呼ぶときはいつも笑顔で、怒られた覚えはほとんどありません。

祖母はマシンガントークのように一方的に話し続ける人で、その話を私はいつも右から左に流していました。そして、幼少の私を主に世話してくれたのも、祖母でした。

祖母は私にご飯をすすめる時、いつも「おいしいから」と言いました。必ず「おいしい」と言うので「嘘だ」と伝えたことがあります。すると「食べ物は何でもおいしい」と、強引な論理で私の疑問に答えてくれていました。

祖母は戦前に生まれた人で、食べるものがなかった時代で育った人でした。生きることへの力強さがありました。

祖母は孫がかわいくて仕方がなかったようです。それがやや面倒に感じられる時期もありましたが、私にとっては祖母は安心できる養育者でした。

父母は家でも学校の先生だった

人の育ちにおいて、安定した養育者の存在と、その養育者とのあいだに安全基地を築けるかどうかは、その人の人格形成・人間関係の取り方を決定づける重要な要素です。

その養育者とは、母親に限られません。父親でもいい、おじいさんやおばあさん、施設の職員、里親でもいい。

私の場合、母親は優しく受容的な存在ではなく、厳しく感情の起伏の荒い、口やかましい人でした。

小学生の頃は、家で進研ゼミのプリントを解いては母親に提出し、丸付けをしてもらっていました。

わからない問題に突き当たって困ったときは、解答を盗み見て母親に提出しましたが、それがバレてひどく怒られた覚えがあります。

父親も厳しく怖い存在でした。

私は小学生の頃にスポーツ少年団の野球部に入りましたが、練習が面白くなく、先輩に上からものを言われるのが嫌いで、「もっとゲームがしたいなぁ」と思って辞めたくなりました。

辞めたいことは母に言いました。しかし、決定には父の了解が必要です。母から父に言ってもらうことになりました。

「父が私の気持ちを知ったら、包丁で殺されるのではないか」と、本気で恐れました。

そこで、布団の中に潜り込んで寝ているフリをし、父母の会話に聞き耳を立てて時間がたつのをまったのです。

それほど、父は私にとって怖い存在でした。(幸い、私が恐れていたことは起きませんでした。)

祖父の他界と家族関係の変化

小学生高学年のころ、祖父が亡くなりました。

祖父が亡くなった頃から、これまでの家族のあり方、家族の関係性が変化し始めたのです。

祖母は悲しみにくれ、毎日のように仏壇の前に座り、木魚を叩きながら念仏を唱えていました。

それは私の成人以降までも続き、およそ10年以上にわたります。祖母は毎日のように念仏を唱え、祖父の死を悼み続けました。

仏間にわりと近かった私の部屋には、祖母が木魚を叩く音がよく聞こえてきていました。

その時間は決まって、家族の夕食が終わって、祖母が一人になった頃でした。

さみしかったのだと思います。祖母は、祖父のことを繰り返し話していました。

私は、祖母が祖父のことをどれだけ思い続けていたのか、疑う余地もないほど身に染みて理解していました。

一方で、怖かった父は、全く怖くない存在になりました。存在感が希薄で影の薄い、まさに現代的な父親へと変わっていきました。

反抗期を迎えた子どもへの関わり方が、わからなかったのかもしれません。

実は父こそが、心理的に、子どもから見捨てられることを恐れてもいたのでしょう。

そして、家庭の中では、母が実権を握り始めます。

しかし、母と祖母の関係は必ずしも良くはなく、口論をよくしていました。そして、母と父も口論をしていました。

私は母から、父や祖母についての悪口を聞かされるようになります。

子どもだった私は「母が正しいことを言っているのだ」と信じるようになり、父を軽蔑し、祖母を疎ましく思い、母に同情するようになりました。

仕事と自己覚知

社会福祉士・精神保健福祉士の資格をとって現場ではたらくようになった私は、自己覚知として自らの生い立ちを振り返るようになります。

そうして自分自身について理解を深め、支援に活かしていきました。

特に転機となったのは、児童相談所でケースワーカーとなり、児童虐待対応の第一線についたことです。

私は、私が育ってきた家族のあり方の不適切な面に否応なく気づかされました。

何が子どもに不適切なのか、何が虐待にあたるのかよく知り、保護者へ指導するのです。

かけた言葉は、ブーメランとなって自らにも返ってきます。

私の育った家庭すべてが不適切とは言いません。(これはどんな虐待家庭にも言えることです)

毎日ご飯を食べることができました。大学まで通わせてもらうことができました。衣服にも不足はありませんでした。

両親は娯楽にはお金をあまりかけない節約家でしたが、教育に関するお金はできる限り出してくれていました。それは我が親の頑張ってくれたことです。

ただし、軽微な心理的虐待(大人の口論)が子どもの前で繰り返される家庭だったのは事実です。

また、母が父と祖母を悪く言い続けたことで(父と祖母は母を悪くは言いませんでしたが)、私の父親像・祖母像にマイナスの影響があったのも事実でしょう。

このことをもって親を恨んでいるわけではありません。親には親のバックグラウンドがあります。仕方がなかったのでしょう。

そうせざるをえなかった親の背景に思いを馳せ、受け容れるだけです。過去は変わりません。

私はこれから先のこと、自分の力で変えられることだけに、注力しています。

私は、原家族の関係の不適切さに気づけてからは、私は私の考えで祖母や父に関わるようにしました。

そうして私が30代になって結婚した頃、祖母は亡くなりました。

最後に祖母に会ったとき。祖母はひどく痩せていましたが、私には「元気で過ごしてな」と、それだけを望みとして託してくれました。

祖母は私の心の中に、今も生き続けています。

なぜ私の生い立ちが、仕事に活きているのか?

私はただただ「自分の苦しみの理由を知りたい」「楽になりたい」「支援で困りたくない」と思って、様々な本を読み続けてきました。

発達障害、精神障害、愛着、虐待・・・

それらの勉強をするうちに、それらと自分の共通性に気づくようになります。

ドンピシャリとはいきませんが、薄く、広く、「俺もそうだ」と思うことがあったのです。

そうして、自分自身のしくみを理解し、自分自身を俯瞰して見つめやすくなり、より生きやすく、楽になれる道を理性的に選ぶようになったのです。

相談支援の仕事をするならば、自分自身についての見立てをもつことは大切です。自分をつかって人を支援するからです。

自分をわからずして対応すれば、相手の問題、相手のせいにしてしまいます。それは自らの加害性に無自覚であることです。支援するはずが、害を与えるのです。

今の私は、私自身について『生まれつき多少の発達特性があったことに加え、家族関係において愛着にも傷を受けた人間』と見立てています。

これが私を生きづらくさせている要因であり、仕事で私を悩ませてもいます。

しかし、私はこの2つがあるからこそ、皮肉にも、福祉の仕事に一定の適性をそなえていると思います。

これは経験則ですが、対象者やその事象と、支援者との間に、一定の共通性があったとき、その分野は支援者の得意分野となりやすいです。

例えば、精神疾患のある方への支援がうまいのは、精神疾患的な傾向のある人です。

それは、理論ではなく、感覚的にわかる部分が多いということです。

平たく言えば、相手の世界観、置かれている立場、思考が、感覚的につかみやすいのです。波長が合うとも言えます。

ここに知識や理論が加わると、さらに秀でます。(好き・嫌いは別にしても)

ゆえに、

私が育った家庭環境があるからこそ、私はそれを、児童相談所の仕事や家族への支援に活かせますし、

私に多少なりとも発達特性があったからこそ、私はそれを、発達障害やそれに類する方々への支援に活かせます。

これは自慢でも謙遜でもなく、経験的な事実と私が思っていることです。

私が福祉業界に入ったきっかけは『心理学の先生からの助言』

「それで、どうして福祉の仕事をしようと思ったの?」と思われたかもしれません。

時はさかのぼりますが、高校生の頃の私は、空虚さ、大人や権力への反発、学校への不適応、根拠のない自信、肥大した自己愛、そういったものの間で揺れ動いていました。

現実的というよりも、空想的だったでしょう。

友人とバンドを組んでライブをしたり、パソコンで作曲したりしていました。

音楽好きが高じて私は「音楽で何かして働いていきたいな~」と夢を見ます。

そのステップとして芸術大学において最難関とされる東京藝術大学への入学を志し、2度受験しますが惜しくも(?)最終試験で落ちます。

そして私は、進路として音楽を選ぶ事は諦める選択をしました。
(大学の選び方も諦め方も、極端であったなぁと思いますが)

ずいぶん悩み、苦しみました。私の人生で初めての挫折でした。

そんな中でも、未来を考えないといけない。

音楽をあきらめて、何をするのか?

私はインターネットで簡易なチェックテストを受けてみます。すると、何の因果かわかりませんが、”教師”と出ました。親と一緒じゃねぇか、と。

それは嫌だ、と思い、次に上位となっているカウンセラーに目をつけました。

そこで、かかわりのあった心理学の先生に相談をしてみたら、意外な答えが返ってきました。

カウンセラーは飯のタネにならないからやめておきなさい。君には、社会福祉士や精神保健福祉士の方が向いているんじゃない?そっちのほうが飯のタネになる。

はっきりとは覚えていませんが、たぶん、このようなことを言われたと思います。

(え・・・先生は飯くえてますよね?自分は食えるけど、たいていの人は無理ってこと?)

と思いつつ。この言葉で、私は福祉の大学への入学を決めたのです。

つまり、福祉業界に踏み入れる”きっかけ”だけを切り取るならば、『心理学の先生からの助言』でした。

その先生は、私に深く関わってくれていたわけでもないし、今では苗字くらいしか覚えていません。

しかし私は、その先生のそのアドバイスで決めたのです。もちろん、アドバイスを受け容れる選択をしたのは、私です。

劇的な何かが起きたわけでも、運命的な(?)エピソードがあるわけでもありません。たぶん皆さん、そんなものではないでしょうか。

福祉の仕事に就いてから

ただし、20代の間は仕事で壁に突き当たるたびに、

「音楽の方が向いていたのではないか?」
「福祉よりも音楽の方が理解できるし楽しいのでは?」

という思いに、繰り返し駆られました。

「福祉はもっと幸せな家庭で育った人が向いているのでは・・・」
「心からやさしい人のほうが向いている・・・」
「いつもニコニコ笑顔の人のほうがいいはず・・・でも俺は・・・」

自分に諦めそうになっている自分。

そんな私に、諦めずに声をかけ続けてくれる先輩がいました。そうしたサポートのおかげでなんとか仕事を続けることができました。

そして、このブログを始めることができたのも、ある友人のおかげです。「俺にはろくなことが書けない」と自信のなかった私に、友人は「お前を信じる俺を信じろ」とユニークな言葉をかけ続けてくれました。

そうしていつの間にか、私は福祉の仕事をしながら、福祉のブログを書く生活になったのです。

最後にメッセージ

社会福祉士、精神保健福祉士、児童福祉司などの福祉の仕事について、「自分は向いていない」と思ってしまいませんか?人と比べて、劣等感に悩んでいる人はいませんか?

あなたの生い立ちは、決して幸せではなかったでしょうか?

しかし、そうしたあなただから、複雑な支援を扱える可能性があることを知ってもらいたい。

福祉以外の仕事経験、出産・育児、多様な人生選択・人生経験、あなたのマイノリティ性、すべてが、この仕事には活かせます。

決して、楽な仕事とは思いません。楽しいだけの仕事とも思いません。

「支援が楽しい」という人は確かにいますが、私はそう感じられないので、楽しいとは言えません。

しかし、しんどさと時に比例して、やりがい、面白さ、自信、人生の意味、あなたの人生の変化を得られる仕事だと思います。

あなたに何か伝わるものがあれば幸いです。

長い文章なのに、ここまでお読みいただき感謝します。ありがとうございます。

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ここまで読んでくれてありがとう!