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誰かの命を背負うということ──児童相談所で働く現実と、決断を続ける代償

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筆者:ぱーぱす(社会福祉士・精神保健福祉士)
自治体で働くソーシャルワーカー。児童相談所などでの実務経験をもとに発信。
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誰かの命を背負うかもしれないということ

児童相談所で働くということは、不安と向き合い、命と向き合うということです。
そして、頻繁に決断が求められます。
一時保護をするかしないか、一時保護を解除するかしないか──ひとつひとつの対応で決断が迫られる。

虐待対応では、児童相談所は「不作為」を追及される立場に置かれます。
「児童相談所ならできたはずなのに、なぜしなかったのか」と問われる。
その矢面に立つとき、児童相談所は驚くほど脆い。

そこで働いているのは、超人的なメンタルの持ち主ではありません。
むしろ、超人的なメンタルだけでは相談支援に向かない、と私は感じています。
ある程度、繊細でないと務まらない現実があります。

その繊細さゆえに、批判を受けたりすると、辞めてしまう人もいるし、休職に追い込まれる人もいる。
中には、自分の命さえ危うくなるほど苦しむ人もいる。
「仕事を失うかもしれない」「もう続けられないかもしれない」というリスクと隣り合わせで働く児童福祉司は多いと思います。

正直に言えば、私自身も誰かの命を背負ってしまった場合、この仕事を続けられる自信があるかと言われれば、胸を張って「ある」とは言えません。揺らぎます。

「自分がゴールキーパーだったのか」という問題

では、自分が関わってきたケースで命が危ぶまれるようなことが一度もなかったかと言われると、そんなことはありません。
直接の最終判断者ではなかったとしても、その途中に自分がいたケースは確かにあります。

責任を「自分がゴールキーパーだったかどうか」だけで判断するのは、正直なところ、情けない話でもある。
守備の一員として自分もピッチに立っていたのではないか──そう思うところがあります。

児童相談所は、常にゴールキーパーであるかのように扱われます。
しかし実際には、一緒に守っていた関係機関も、保護者も、周囲の大人たちもいる。
それでも最悪の事態が起きたとき、責められるのはゴールキーパーだけ。
そして、人は自分がゴールキーパーだったと認めることを避けたくなる。

「あれは仕方なかった」「自分にはどうしようもなかった」──そう思いたくなる。
人の死は、それほど簡単に受け止められるものではありません。

社会的責任を問われる立場でなかった場合、「自分の責任があった」と認めるのは余計に難しい。

それでも命には関与している

事実として、私が関与した子どもの中に、亡くなった子はいます。
虐待死ではありませんが、それでも「私には防げなかったのか」「あのとき、ああしていれば結果は違ったのか」と思うことはあります。

いたずらに自分を責めても、この仕事は続けていけません。
しかし、「そこにもういない」という現実は、今でも時が止まったままで、どうしても受け入れられません。

対人支援は、常に命のリスクと隣り合わせ

障害分野でも同じです。
精神障害のある方なら、自傷リスクや症状悪化による危険の可能性がいつも意識される。

もし、自分が担当している方がそのような行為に及んだら──私たちが背負う命の重みは計り知れません。

「続けたい」と思う一方で、「それほどのメンタルを持ってしまうのは、人としてどうなんだろう」と感じてしまう矛盾もあります。

落ち込んでばかりではいられない。
でも、「全く責任がなかった」と言い切るのも難しい。
この、どっちつかずのバランス感覚が本当に難しい。

人には「命をどうするかを決める自由」があるという現実

人間には、自らの命をどう扱うか、最終的には自分で決めることが物理的にはできます(多くの人の場合)。
これは哲学的なテーマでもあり、国によって安楽死の是非が分かれるように、明確な答えはありません。

私自身、安易に語れるほどの知識はありません。
ただ、自ら命を絶つ人がいるという事実だけは変わらない。

そのとき、周囲のショックや悲しみは深く、時に「忘れたいほどの出来事」にもなります。

児童相談所は、この命のせめぎ合いを扱う場合もあります。

一時保護は「関係者の要求」だけで決めてはいけない

「このままでは子どもを殺す。だから一時保護しろ」
「このままでは私が被害を受ける。〇〇が危険だ。だから一時保護しろ」

こうした脅しめいた言葉が投げられることもあります。

ここで、批判を恐れたり、自分や組織を守るためだけに介入判断をしてしまうと、子どもの利益を損なう判断につながる。
だからこそ、要求や要望に流されず、冷静にリスクを見極め、何が子どもに最善か見極める力が必要です。

見えない家庭の中で何が起きているのか。
人の心を見透かし、リスクを100%の精度で当てるなんて、きっと神様にしかできません。
しかし、それを人間がやらねばならない。そういう世界で児童福祉司は働いています。

ソーシャルワーカー全般に共通する重さ

ソーシャルワーカーの仕事は、児相に限らず、あらゆる分野で同じです。

介護だってそうです。児童指導員もそうです。施設で働いている職員もそうです。
──みんな同じ構造の中にいます。

もし命を失うことがあれば、その責任が問われるかもしれない。
自己保身的な思考が出るのは、対人支援をしていれば当然だと思う。

それでも続ける人たちがいる。
この社会がギリギリで回っているのは、そういう人たちのおかげです。

なのに、リターン(給料)はあまりにも薄い。
人の命を背負う仕事としては、あまりに釣り合っていないと私は思っています。

「悪者探し」で終わらせてはいけない

何かが起きたとき、
「誰が悪いのか」
「誰を処罰するのか」
そこで思考が止まってしまう社会では、子どもの利益は守れません。

批判が大きくなればなるほど、職員は萎縮し、組織防衛的な判断ばかり増えていきます。
子どもよりも、自分の身や家族、将来を守りたくなる──自然な心理です。
今の児童相談所・学校・警察は、どうしてもその傾向がないでしょうか。

これでは、「誰のための支援なのか」「何のために仕事をしているのか」が見えなくなってしまう。

決して「批判するな」と言いたいわけではありません。
防げることは防がなければならないし、対応に改善点があるなら明らかにし、社会全体の知恵に昇華させることも欠かせません。

しかし、批判が強くなりすぎ、個人を“悪者”として貶め始めると、社会的に許されているいじめのような構図になってしまう。
そうなると、相談する側も減っていきます。

「児相=一時保護」というイメージが強くなれば、そこに相談したい人は限られる。
子どもと離れたい、施設に入れたい親くらいでしょう。

それが本当に子どもの利益につながるのか。
私は、強く疑問を感じています。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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