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児童福祉

児童福祉司の仕事の重さと感覚麻痺―子どもの最善の利益を背負うリアル

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児童相談所のケースワーカー。
”児童福祉司”という肩書きには、世間の人もソーシャルワーカーも、なんとなく「重い仕事」というイメージを抱くことが多いと思います。

虐待、保護、非行、家庭の混乱…。
“軽い仕事”だと言う人はまずいません。

ただ、児童福祉司を続けていて、ある日ふと気づきました。
「あれ、自分…感覚が麻痺してきてないか?」 と。

そして、また別の瞬間、その麻痺が一気に溶けるような“重圧”に直面する。

今日は、その 麻痺と、我に返った瞬間に押し寄せる重さ について書きます。

筆者:ぱーぱす(社会福祉士・精神保健福祉士)
自治体で働くソーシャルワーカー。児童相談所などで十数年の実務経験あり。
このブログでは、福祉を学ぶ人・働く人が明日から使える視点を持ち帰れるよう、現場の知見や考察をもとに発信しています。
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この記事を書いた人

結論

結論

  • 児童福祉司は、“子どもの人生を左右する判断”を日常的に扱う仕事
  • そうした中で感覚が麻痺しやすい
  • しかし、時々その麻痺を取り除かないと、子どもの最善の利益は狙えない

児童相談所の仕事はなぜ「重い」のか

児童相談所の児童福祉司と言えば、

  • 虐待から子どもを守る
  • 一時保護を判断する
  • 親への虐待指導
  • 非行・触法行為等をした子どもの支援

こうしたイメージがあると思います。
世間の人も、福祉職の人たちも、「大変そう」「しんどそう」 という印象を持つのは自然です。

正直、私自身も 望んで児相に来たわけではありません
避けていた側でした。
▶ 大学時代、いちばん苦手だった「児童福祉」で働くことになった記録【児相の児童福祉司】

それでも、いろんな現場を経て、結果的に児童相談所で働くことになりました。

たぶん期待されていたのでしょうし、嫌われ職場で担い手がいなかった、続かなかったこともあるでしょう。

待遇は行政職として恵まれていますが、それでも採用に人が集まらないのは、
児童福祉司にのしかかる重圧が“自然に人を遠ざけるレベル”だから だと思います。

続けるうちに“麻痺”していく感覚

児童福祉司として働いていると、驚かなくなることが増えます。

  • 叩かれた
  • 放置された
  • 泣き声が絶えない
  • 夜間に子どもだけで残されていた

こうした通告を聞いても、驚きはしません。
淡々とリスクを分析し、情報を集め、判断するだけです。

これを“冷たい”と感じる人もいるかもしれません。
でも、感覚を守らないと、児童福祉司の仕事は続けられない。

きっと医療と同じで、防衛本能が働くのだと思います。

思えばMSWの実習時代、毎日「余命」の話を聞く現場にいました。

そのとき私は、悲しさを感じず淡々と受け止める自分に、違和感を抱きました。
実習担当のMSWさんに言われました。

衝撃が大きすぎて、心が自動でガードしてるんだと思う

福祉も医療も命を扱う仕事では、こうやって環境に適応しながら心を守って働くのかもしれません。

“我に返る”瞬間:上司の一言で足が崩れそうになった

最近、そんな私でも重圧を正面から浴びる出来事がありました。
詳細は書けませんが、ケースの「人生の舵取り」に関わる内容でした。

上司から、

あなたはどう判断していく?

と問われた瞬間、心が一気に現実に戻った感覚がありました。

児童相談所では、最終決定は所長が行います。

しかし、火種を最初に作り、方向性を形にしていくのは担当ケースワーカーです。

正直に言えば、意思決定の半分以上は、担当者である私の見立てに乗ることが多い。

虐待対応には、ある程度のセオリーがあります。
一方で、それ以外のケースには正解の手法などほぼ存在しません。

さらに言えば、選択肢そのものが100点満点という世界ではありません。
むしろ、

  • 20点
  • 30点
  • あるいはマイナスの中から

「まだマシな選択肢」を見出すような仕事。
児童相談所で受けるケースは、すでに通常の選択肢が尽きた段階が多いです。

“子どもの最善の利益”とは、決して100点の正解ではない。

泥水の中に手を突っ込み、泥の少ない一滴を選ぶような作業。

この現実を改めて真正面から受け止めた瞬間、もう何度目かわかりませんが、心が深く沈み込みました。

子ども支援の“重さ”は、大人分野とは違う

大人の支援をしていたとき、救いだったことがあります。

自己決定。
最終責任は本人がもつ。

しかし子ども支援では、これは通用しません。
特に乳幼児や低学年の場合、責任のほぼ全てが支援者側に乗る。

声なき子ども、意思決定の責任能力が不十分な子ども。
彼らの意思決定を代理して担うことがある。

だからこそ、責任の重さで膝が折れそうになるのです。

“外野の言葉”が刺さる理由

ともに働く児童福祉司やケースワーカーからの言葉は受け取れます。
きっと、みんな同じ重圧の中にいるからです。

ただ、それ以外の人から言われた言葉には、どうしても心がざわつきます。

「あなたに何が分かるんだ…?」

もちろん、これは私の本音であって、人前で言う話ではありません。
感じが悪く映るかもしれません。
それでも、どうしても思ってしまうのです。

この苦しみは、体験した人にしかわからない。
日々の重圧も、孤立感も、不全感も、そして感情が追い込まれていく感覚も。

児童福祉司は、私の経験では、心理的負荷の大きさが福祉職の中では類を見ないレベルと感じています。

麻痺しすぎてもダメ、でも正常のままでは心が持たない

感覚が麻痺しているから働ける。
でも、麻痺しすぎたら 子どもの最善の利益を狙えない

感覚が正常なら支援の質は上がる。
でも、正常のままでは メンタルが壊れかねない。

だから、

抱える → いったん下ろす → また抱える

この繰り返しで、何とか支援を続けているように思います。
きっとこれは、私だけではないでしょう。

結語

児童福祉司は華やかな仕事ではありません。

泥の中から、”わりと濁りの少ない泥水”を拾い上げるような仕事。
それが”子どもの最善の利益”の正体だと思う。

児童相談所が対応するケースとは、すでに万策尽きていることが多いのです。

感覚を麻痺させていく日々の節目で、
正常をとりもどしつつ、
私はこれからも支援に向き合っています。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

この記事を書いた人
ぱーぱす

自治体で働く社会福祉士・精神保健福祉士|現場経験15年、地域・医療・行政の3つの立場を経験。ブログ歴6年、記事約400本。福祉職のキャリアや生活に役立つ実践的な情報を発信しています。

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