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社会福祉士が語る遊びと父性|勝つこと・負けることの意味とパターナリズムの限界

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遊びでは勝ったほうがいいの?負けたほうがいいの?

福祉現場では、利用者さんと一緒に「遊び」をする場面が多くあります。

例えばボードゲーム、カード、将棋、オセロ、卓球、バドミントン…。

ここで浮かぶのが、「遊びは支援者が勝つべきか?負けるべきか?それとも普通(実力をそのまま出す)でいいのか?」という疑問です。

3つの意見

  • 負けた方が良い
  • 普通にすれば良い
  • 勝つ方が良い

この3つにはそれぞれ論拠と価値があると思います。

そして今回、私が特に強調したいのは「勝ちを狙う意味」について。単に「勝ったら気分がいい」ではなく、父性やパターナリズムとの関わりから考えてみます。
(言葉の定義に曖昧さが残ったままの自論ですので、1つの考えとして参考にしてください)

書いた人:ぱーぱす(社会福祉士・精神保健福祉士)
自治体で働くソーシャルワーカー。児童相談所などでの実務経験をもとに発信。

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負けた方が良いとする論拠

まずは「負けるべき」とする立場です。

  1. 支援者が負けることで、利用者の自信や自己効力感が高まる。
  2. 勝つことが利用者にとって大きな喜びになる。
  3. 子ども相手に勝つなんて「大人げない」「勝たせてあげるべき」

また「そもそも福祉はサービス業なんだから負けるべき」という立場も存在します。

例えば、あるデイケアで院長がスタッフに「君たちはお酒を持たないホステスだと思え」と言ったという話もあります。

患者さんにとって楽しい場であることが優先で、スタッフは積極的に負けて、利用者を気持ちよくさせるよう求められていたわけです。

こうした考え方は、利用者を傷つけない・安心してもらう・気分よく通ってもらうという点では一定の意味があります。

私の体感ですが、わざと負けている方はかなり多いんじゃないでしょうか?

普通にすれば良いとする論拠

次に「普通にすればいい」という立場。

  1. 勝つべきか負けるべきかなんて正解はない。そもそも考えすぎでは?
  2. 勝っても負けても大して変わらない
  3. 無理して負けても嘘っぽさが伝わり、信頼を損なうリスクがある。

手加減して負けるでもなく、本気になって勝とうとするのでもなく、勝ち負けの結果にもこだわらない。

また「負けてあげる」という考え方自体が上から目線だという意見もあります。
そうやって、優位性を保とうとしているのだ、と。

だから、自分の実力をそのまま出せばよいとするスタンスです。

この立場に立つと、遊びはあくまで遊び。

利用者へ誠実に関わるには自然にプレイするのが一番というわけです。

私自身は相談支援関係をつくるときは、誠実性を大切にしたいので、この「普通に遊ぶ」スタンスを意識することが多いです。

勝った方が良いとする論拠 ~父性・パターナリズムとのつながり~

そして最後に、私が注目したい立場が「勝つ方が良い」という考え方です。

勝つこと=強さの顕示

この「強さ」は父性の象徴であり、パターナリズム的な関わりにつながっていくと思います。

父性的・パターナリズム的な場面の具体例

児童福祉の現場を例に考えてみましょう。

例えば、児童養護施設で”12歳の子どもがタバコを吸っていた”ことが発覚しました。

支援者はどう対応したら良いでしょうか。

子どもに対して「そんなこともあるよね」と許す対応だと、喫煙が繰り返されるリスクが高いです。そして、「大人は許してくれた」と、エスカレートする危険すらあります。

思うに、気持ちに共感すること自体が間違いなんじゃない。
事情をきいて、背景に思いを寄せることも、時にあって良いと思います。

本人の知的な能力、年齢、判断の傾向などによっても、伝え方は工夫がいります。
自分で考えたり、問題に気づけるように、情報を伝えることも大切です。

どのような対応をするにしても、対応の軸は「どんな事情があっても喫煙は許さない・許されない」という揺るぎない姿勢であること。

これが私の思う父性的な関わりであり、本人の希望よりも規範を優先させるパターナリズムす。

父性が届くために必要な前提

ただし、普段から支援者が「弱々しい・友達のような存在」だと、こうした言葉は子どもに届きません。

「お前の言うことなんか聞かない」「うるさい!」「いきなり偉そうにしやがって!」と反発されるだけで、結果的に社会性が育たないままになります。

だからこそ、日常から「強さ」もしくは「規範」を示す関係性を築くことには、意味があります。

そのため、遊びで勝つことも、その関係性づくりの一部として役立つ可能性があります。

特に、対等な関係を築きにくい子どもや、人間関係を「強いか弱いか」「上か下か」で捉える傾向のある子どもには、短期~中期的に有効だと思います。

パターナリズムの限界と長期的な目標

ただし長期的には、本人が誰かとの関係性に縛られて規範を守るのではなく、自らの内面に社会性を備えることを目指さなければなりません。

「先生がダメって言うからタバコはダメ。でも先生がいなければやってもいい」
――そんな世界観から抜け出すためには、対話や問いかけによる関わりが不可欠です。

ここには、パターナリズムだけでは到達できない限界があります。

だから私たちは、対等な関係性を築く努力をし、時間をかけて、質問をしたり言葉をかわしていくのです。

用語について一言

ここまでの記事では「父性」「パターナリズム」という、定義の難しい・あいまいな言葉を使ってしまいました。

分かりにくさや違和感があったかもしれません。その点についてはご容赦いただければと思います。

父性については、精神科医の樺沢紫苑先生のこちらの本で、考えを深めることができます。

なお、パターナリズムについては別の記事でも解説していますので、興味のある方はこちらをご覧ください。

まとめ

遊びの勝ち負けには、3つの立場が存在します。
単純化すると次のようにまとめられます。

  • 負けるべき:利用者さんへのサービス精神、大人っぽい対応
  • 普通でいい:何も考えていない or 誠実性を大切にする
  • 勝つべき :強さを示し、規範を示す。父性・パターナリズムへ進化可能

どれも論拠があり、私は状況に応じて選んでいます。

大前提として、社会福祉士や精神保健福祉士の基本は対等性です。

父性やパターナリズムはあくまで特定の条件や場面で有効な関わり方であることをお伝えしておきたい。
例えば、低年齢の子どもなど、十分な判断能力のない相手の場合です。

遊びは単なる娯楽ではなく、支援関係を形づくる営みでもあります。

遊びにのぞむ姿勢、結果としての勝ち負けには意味があります。

時に勝ち、時に負け、時に教え、時に教えられる。
その立場の移り変わりも「対等性」の姿なのだと思います。

1つの考え方として参考になると嬉しいです。それではまた!

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