ケースワークで「自己保身・自己利益」を除外するための問いについて
これは、私がケースの判断で迷ったときに、実際に自分に向けて使っている思考法であり、自分自身との対話の方法です。
ケースワークや相談支援の現場では、
「自分に負荷のかかる判断(A)」と「比較的、楽な判断(B)」
に直面することが少なくありません。
判断に迷いが生じたとき、そこに自分の利益――例えば「この対応はしんどそうだから嫌だな」という感覚――が、実はあまり自覚的ではない形で入り込んでいることがあります。
すると、無意識のまま、後から理屈をつけて「(A)をしない理由」を作り上げてしまう。
人間は、そういう生き物だと私は思っています。
理屈は後からついてくる。
心は、初めから決まっている。
する・しないが最初から決まっている、という判断のあり方は、決して珍しくありません。
かく言う私自身も、時にそうした気持ちに駆られます。
一時保護という「迷いが入りやすい判断」
例えば一時保護はその一つです。
一時保護をすれば多くの仕事が舞い込んでくる。
その後の対応に迫られる重大な判断であり、軽々しく行うものではありません。
しかし、だからといって――
本当に自分の判断はクライエントのためになっている判断なのか。
これはもしかして、自分が理屈をつけて「何かをする」あるいは「何かをしない」判断をしているのではないか。
そうやって、自分の判断に自信がなくなることもあります。
0か100では割り切れない状況で起きる揺らぎ
特に、0か100で考えられないような微妙な事態――50:50や、6対4くらいで悩んでいる場合――は、なおさら心が揺れます。
そこで私は、自分に、こう問いかけます。
このケース、この状況に、もし同僚が陥っていた場合、私はどのような判断をするだろうか?
どの判断が適正だと意見するだろうか?
「他人のケース」として考えるという視点

つまり、周囲の誰かがその状況に陥っていたときであれば、
自分の利益や保身といった要素を外して、
より冷静に、より客観的に意見しやすくなります。
(それが私という人間の特徴でもある)
何かをする・しないで迷っている人がいた時には、
一歩、引いて見ることができ、冷静な言葉をかけたり、アドバイスできる。
一方で、自分事になると難しい。
自分の利益、自分の負担、悩みが絡んでくるからです。
一時保護の判断は、なぜ組織で行うのか
だから、一時保護の判断なども、第三者の方が冷静に判断しやすい。
担当者が大変だろうが、どうだろうが、「やるべきか、やらないべきか」を冷静に言いやすい。
だからこそ、例えば児相の一時保護の判断は組織で行うことが原則です。
大きな決定は会議でするのが原則。
所長を含めて、会議で決める。
担当者が独断で決められることでは、およそありません。
自分のケースを「他人のケース」として見る
だから自分の迷ったケースも、「他人のケースだ」と考えてみます。
そして、「他人のケース」だとしても判断が変わらないのであれば、その対応はある意味、冷静な判断だと思います。
私の場合も、それでも判断が変わらなければ、より自分の判断・対応に自信を持てます。
「これは自分がしんどいから、楽だから」やろうとしている対応ではなく、「誰かが担当していたとしても、私はそう助言するだろう」と自信を持って言える内容になります。
即時対応が求められる現場で
判断に迷っているケースについて、振り返ったり、考えたり、自分に問いかける時があります。
誰かと話しながら考えるのも一つです。
しかし、いつだってそうした環境に恵まれるわけではありません。
みんな自分の仕事、ケース対応に動き回っている。
判断まで時間の猶予がないこともあります。
すぐに迫ってくる。
今、決断しないといけないこともある。
私たちはいつも、そういった即時の対応を求められます。
時間の余裕は大してない――これは現場によくあることでしょう。
冷静になるための、現実的な工夫
だから、決断しなければいけないときに、自分が冷静になれる対応の仕方、やり方を持っておくことは、ソーシャルワーカー、ケースワーカー、社会福祉士、精神保健福祉士であれば、有効なテクニックであり、心得だとも思います。
空気感に飲み込まれないこと。
これがとても大事です。
周囲から
「すぐに〇〇してください!」
「このままだと危ないです」
「早く折り返しの連絡をください!」
などとせがまれたとき、その言葉のままに動くことは、その後の対応の決定権を相手に渡すことになりかねません。
それを防ぐためには、少し、時間を稼ぐ。
あえて少しだけ席を立つ。
少し外に出る。
例えば、手洗いに行くのも一つの方法です。
とても自然で、一人になる時間を確保しやすい。
わずかな時間であったとしても、その中で思考を巡らすことはできます。
そして、「仕事」という体裁をしっかり保った上で、時間を空けることができる。
とても現実的な方法ではないかと、私は考えています。
自己覚知という、終わりのない営み

今回の話は、広い意味で言えば、自己覚知の営みの一つです。
私はもうこのブログで、耳にタコができるくらい自己覚知の話をしてきました。
自己覚知の方法の話もしてきています。
▶社会福祉士の自己覚知とは?【必要な理由・方法をわかりやすく解説】
いつまでたっても終わることはありません。
これが自己覚知の営みです。
私の自己覚知が、また誰かの自己覚知を促し、より支援対象の利益にかなう。
そういった後押しとなる知識になることを願います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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児童福祉司は、決断する仕事。私はそう考えています。
どの方向に舵を切っても、誰かが泣く、怒る、不利益をこうむる。しかし、それでも何かを選ぶ決断をしなければいけない。それが児童福祉司です。
だからこそ、絶対に外せないのが自己覚知。その繰り返しのなかから、私が自分に問いかけるようになったのが、今回ご紹介した問いでした。
介護・介助のように、直接かかわる現場では、身の回りのことを支援者がしてしまったほうが「早く終わる」ことがあります。
全体の流れ、スムーズさ、感謝してもらえる可能性。そういった点から、手伝うこと、代理することを選びがちです。
しかし、それが本当に相手の利益になるのか。立ち止まって考えたいテーマです。
自己覚知は、すればするほど自分が幸せになる……と嬉しいのですが、実際には、見たくない自分を見たり、認めたくない自分を認めざるを得ないこともあります。
人は、生きるために、今の自分のあり方を無意識のうちに選び、落ち着いてきました。
それは一つの生存戦略でもあります。
だからこそ、自己覚知をして気づきを得ること、そして別の行動をとることは、別の生存戦略、別の人生を選ぶことにつながると、私は考えています。
たとえ苦しくても、私は自己覚知をやめない。





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