ケースワーカーやソーシャルワーカーとして現場で相談支援をしていると、基本的には良好な関係性をもとに支援をしていくことが望ましいとされています。そのために努力を重ね、あの手この手で、時に「顔の見える関係」をつくりながら、話し合いを重ねていきます。
私自身、こちらの記事で「顔の見える関係」をつくるメリットや方法について解説し、良好な関係性のもとで協働することの大切さを伝えてきました。
▶ 顔の見える関係はメリットいっぱい!つくるコツは?|社会福祉士解説
しかし、それでも相容れない場面はあります。きれいごとだけでは済まないのが、現実の現場です。
何に違いがあり、何が合意できて、何は合意できないのか。そうした論点を明確にしながらやりとりを続ける努力や苦労、そして辛さは、持続的なものであり、一瞬で終わるもの、1時間で終わるものではありません。スッキリしないまま、中ぶらりんの状態で続いていくこともあります。
今回の記事では、そうした場面において、「怒り」という感情を表出することについて考えてみたいと思います。
ソーシャルワーカーが「怒り」を表出するのはタブーなのか。
私は、この問いに異論を唱えてみたいと思います。
合意できないときに線を引くということ
そうした中で最善に努めても、なお譲れない内容において合意が果たせない場合はあります。それはクライエントに対してもありますし、組織や関係者に対しても同様です。
所属として、組織として、担当者として「できること」の境界線、ラインを引かざるを得ない時はあります。そうしなければ相手方からの要求が無尽蔵に膨れ上がるばかりで、結果的にクライエントの不利益につながると想定される場合もあります。
そうしたときには、やはり
「できないことはできない」
「こちらができることはここまでです」
と申し上げないといけない時があります。
当然、相手の反発を受けます。不満を述べ立てられ、要望を重ねられ、クレームめいたことを言われる。そういうことはよくあります。特に児童相談所などでは、そうした困難な状況に陥りやすく、不満や非難を受けることも珍しくありません。
「間を取る」ことが不適切になる場面
だからといって、相手の要望を聞き入れる、あるいは相手の要望と折衷案を求めることが、必ずしも望ましいわけではありません。よくあるような「間を取る」という対応は、論理を曲げることにもなりかねません。これは不適切なこともあります。
具体例:一時保護をめぐる判断
例えば、学校の先生が児童相談所へ「学校に通う生徒の一時保護」を求めてきたとします。児童相談所としては「一時保護は不適切だ」と考えている。しかし学校の先生としては、「これはもう施設に入れるべきくらいの状況の子どもだ」と主張している。
そうした場合に、
「間を取って1週間だけ一時保護しましょう」
「そして学校の了解を得ましょう」
などとするのは、論理を曲げる結果になり、その先の対応としても要望めいた話が終わらない、ということは想定されるでしょう。

組織として毅然と対応する必要性
結局のところ、どこかでは線を引かなければなりません。関係者に対しても毅然と対応しなければならない。「間を取る」ような対応ではうまくいかないのです。
結果としてこちらの胆力が試されます。しかし胆力だけでも足りません。
組織としての毅然とした対応、方針の維持、担当者だけが矢面に立たない位置づけ、
「担当者だけの意見ではない」という組織的対応が絶対的に必要です。
「担当者 vs 担当者」
となったとき、「組織としての見解か」と問われる。
だから、そこでも怯まず「これは組織としての見解です」と伝えられる状態が大切です。
それができない児童相談所は、対応がとてもブレますし、現場の担当者としても、とてもやっていられない仕事になります。自分が毅然と対応したところで、争いや緊張関係に陥ったときに上司や組織が助けてくれないとなれば、毅然とした対応はできません。
結果的に相手の要求に巻き込まれ、子どもに不利益な決断をしてしまいかねない。だから相談支援というのは、組織としてトータル戦力で当たっていくものだと私は思います。
感情的反応とケースワーカーの傷つき
毅然と対応する。
言葉でいうのは簡単ですが、相手方から感情的な反応を受けることもあります。感情的なもの言い、いわゆるハラスメントに相当すると思われる言動を受けることもあります。
大人同士、関係機関との間であれば許されるのか、と思うような言葉を受けることもあります。電話であれば立証が難しく、その場では言いたい放題に発言する人も現にいます。
本当にケースワーカーという仕事、福祉というのは、傷つきも抱えながら当たる仕事です。

怒りは本当に「悪い感情」なのか
ではこちらのスタンスとして、常に冷静に、常に淡々とことに当たれば良いのでしょうか。原則はそうだと思っています。感情的に発言を繰り返してはいけない。言葉には心があってしかるべきですが、必ずしもそこに怒りを込める必要はないと思います。
とはいえ、今まで様々な現場で働く中で、「怒り」という感情が無益なものだったかと言えば、私はそうは思いません。
近頃はアンガーマネジメントなどで、怒りを悪い感情のように扱い、コントロールすべき対象とする風潮があります。それは確かに正しいと思う。
しかし実際のところ、怒りを表出できる人は、それを強みにできる点もあると思っています。
怒りが持つ「生存戦略」としての側面
怒りを表出するタイプのクライエントや関係者には、慎重に対応することが多いです。ある意味それは、相手の利益にかなう場合もあります。相手の要望を聞き入れる場合だってあります。
そう考えると、怒りという感情は、人が生きていく上で、あるいは社会の中で生活する上で、「生存戦略」として有益な感情であった可能性は高いと思います。そうでなければ、人類がこの怒りという感情を備えることはなかったでしょう。
怒りという感情を肯定すべきだ、という話ではありません。しかし、この感情があることで要求が通る場合がある。これはシステムとして、なめてはいけない点だと思います。
怒りの表出とそのリスク
もちろん、あからさまに怒り散らかし、大声を張り上げ、クレームを申し立てるのは明らかなハラスメントです。
ただ、感情がにじみ出る程度の怒りが、関係者とのやりとりにおいて一定の力を持つことがあるのは否めないと思います。私はそうした現場を何度も目にしてきました。これは理屈ではなく、現場のリアルです。
論理を立てた中で表出される怒り
だから「公に怒りを表すべきだ」と言いたいわけではありません。ただ、この感情が意味をなすことは事実でしょう。
怒りを向けられたときに、それでもこちらが怒りを交えずに対応するのは、非常に難しい。
どんな時なら、この感情を表出しても許されるのか、あるいは効果的なのか。これは、まだ私の中でうまく言葉にできていません。だから安易に言語化するのも不適切だと思っています。
ただ、これまでを振り返ると、怒りが表出されたことで何かが動いた場面は確かにありました。
無茶な要望ではなく、論理が通っているにもかかわらず、不合理な対応をされ続けたとき。そうした場面で、論理を立てた上で怒りをにじませる。それは時に必要です。
それは「論理を立てた中で表出される怒り」であり、感情的な暴発ではないことが重要だと私は思います。
きれいごとだけでは回らない現場
「もう少しで怒りそうだ」という緊張感のある言葉。それはクライエントに対してだけでなく、関係機関・関係者との関係においても、有益な方法になる場合があると、私は現場で感じています。
こうしたことは、教科書では語られないでしょう。誤解を招きやすい話であり、
「じゃあ、どんどん怒っていいんですよね!」
と真に受けて、0か100かで突っ走る人が、ほぼ必ず現れるからです。そうなれば、学校や先生の責任が問われることになります。
だからこそ、私はこのようなブログで、「現実」を発信する価値があるのだと思っています。
だから言います。現場は、きれいごとでは回っていません。
学校では、
「嘘をついてはならない」
「人を騙してはならない」
「暴力で人を脅してはならない」
と教えます。
しかし、世界はどうでしょうか。
現実を直視した先にあるもの
日本はアメリカの傘の下にあり、アメリカは核を保有し、その武力を抑止力としています。これを人間関係に置き換えれば、日本はスネ夫のような立場で、ジャイアンの力のもとで立ち回っている存在だと、私は感じます。
政治的な話であり、このような認識自体、賛否があるかと思います。
私は、良いとか悪いとか言いたいのではありません。これが現実だと思っています。
私は戦争を許したくありませんし、平和であってほしいと願っています。また、社会福祉士をはじめとする専門職は、理想の実現に向かう存在であるとも認識しています。
われわれ社会福祉士は、すべての人が人間としての尊厳を有し、価値ある存在であり、平等であることを深く認識する。
われわれは平和を擁護し、社会正義、人権、集団的責任、多様性尊重および全人的存在の原理に則り、人々がつながりを実感できる社会への変革と社会的包摂の実現をめざす専門職であり、多様な人々や組織と協働することを言明する。
引用元:社会福祉士の倫理綱領 2020 年 6 月 30 日採択
しかし、まだまだ現実の世界は、そのようには回っていません。国同士が駆け引きをし、建前を使い、腹の底を探り合う。それがリアルです。
そしてこれは、組織、職場、そして福祉の現場においても同様だと、私は考えています。
児童福祉司が直面する現場のリアル
きれいな方法だけでは、現場は回せません。残念ながら、まだまだそうした状況にあります。
だからソーシャルワーカー、社会福祉士、精神保健福祉士、児童福祉司は
――時に、正攻法ではない、きれいな言葉ではまとめられない対応も、せざるを得ない時がある。
そしてそうした人のほうが、良くも悪くも現場を続けられ、メンタルも強いのだと、私は思います。
時に「怒り」を使わざるを得ない現場は、確かに存在している。
私はそう考えています。
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児童福祉司は、決断する仕事です。多くの場合、誰かが怒り、不満を述べ、心配を連ねます。もし、みんなが笑顔のまま終わる支援で済むのであれば、そもそも児童相談所が関与することはなかったでしょう。
児童相談所が関与し、児童福祉司が対応しなければならないのは、すでにそうしたフェーズを過ぎてしまったケースなのです。
ゆえに、怒りを向けられることは少なくありません。それに対し、毅然と決断で応える。時に、その本気さを伝え、理不尽さに屈しないために、どのような手法があり得るのか。あらゆる策を検討する姿勢が大切だと、私は思います。
とはいえ、怒ってばかりいては、自分の気持ちも、メンタルも保てません。結果として、ケースに不利益が生じる可能性もあります。基本的には、冷静に、自分の感情をコントロール下に置いておく必要があります。
そのためには、まず体を整えることが必須です。そのための工夫については、こちらの記事でご紹介しています。
怒りは、自己覚知で扱う必要のある感情でもあります。
なぜ怒りが生じているのか。私憤なのか、それとも必要な憤りなのか。私憤であるならば、慎むべきでしょう。
そうした意味では、憤りを感じつつも、冷静さを失わないことこそが、ソーシャルワーカーに求められる姿勢でしょう。こちらは、社会福祉士、精神保健福祉士、児童福祉司として、忘れてはならない自己覚知について語った記事です。





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